シンナムアミダブツ(真南無阿弥陀仏)とは【下】(過去の記事について⑦)

③ ありのままの自分を認める

 親鸞の「南無阿弥陀仏」の中には「ありのままの自分を認める」という考えが含まれていると思います。ありのままの自分を仏が認めてくれるのです。

 僕の場合で申しますと、ありのままの自分を認めることができるようになったのは、数年前からです。認めることができるようになった理由は、色々ありますが、以下の四つが大きいと思います。

Ⅰ、他者の批判をしない
Ⅱ、批判的な見方をする
Ⅲ、失敗した時、次回からどうするか具体的対策を考え実行する
Ⅳ、感謝する

Ⅰ、例えば他者に対してただ単に「あの人は短気だ」というのは事実ですが、「あの人は短気だから駄目だ」と非難をともなう判断をすることがここでいう批判です。その物差しを作ってしまうと、その物差しが自分にも当てはまる場合が出てきます。物差しが多くなればなるほど自己批判も強くなってきます。物差しが減れば自己批判も減ります。つまり他者の批判を止めることにより自己批判も止めれます。他者に寛大になる自分にも寛大になれます。他者に優しくすることが、自分に優しくすることに繋がります。他者の物差しで自分を測らなくてすむようになりました。

Ⅱ、については「批判的な見方」と「批判」はちがいます。「批判」には、偏り、侮り、高慢などをともない、視野を狭めます。「批判的な見方」は公平、理解、共感などを伴い視野を広げます。先ほどの「あの人は短気だ」の例でみるとそれが良い場合もあれば、悪いばあいもあります。接客業でお客さんに対して気が短く不機嫌な対応をしてはよろしくありません。僕がであった短気な人は仕事に集中し多くの仕事をこなす人が多かったです。その人の意図、あり方により一つの特徴が有利、不利、よろしいこと、よろしくないことが違ってきます。「批判的な見方」は真実を深めてくれます。

Ⅲ、については仕事とかで失敗した時、自分を責めたり他者を責めたりすることが多く、落ち込む時間が長かったのですが、具体的対策を立て、次回から同じ失敗を繰り返さないようにするようにしました。また同じ失敗をしたら、違う具体的対策を立てます。その繰り返しです。失敗の回数が減り、自分を責めすぎないようになりました。

Ⅳ、については今の自分が存在できるのは、草木、人、土、水、空気、太陽などあらゆる存在があってのことです。僕を生かしてくれているすべてを大いなる存在と呼ぶとして、大いなる存在の愛には感謝しかありません。大いなる存在の慈悲は僕に安らぎを与えてくれます。感謝の気持ちを持ち続けると、ありのままの自分でいいんだよ思えるようになります。ですが日常のやらなければならないことに追われていると、それを忘れます。真南無阿弥陀仏は感謝を忘れないための言葉でもありました。



④ 合力(ごうりき)とは


 「雨が降ったら傘を差す」を使って合力について説明させていただきます。

 雨の中を歩くと濡れますが、雨が降ることを止めることはできないので、雨が降るという状況は受け入れます。雨が降るから地上の生命たちは生きられます。雨のおかげです。これが南無阿弥陀仏です(弱い他力)。

 傘をさすとはできます。できることは行います。ブッダの様に悟りっぱなしというのは、難しいかもしれませんが、誰でも悟っている時間を増やすことはできます(弱い自力)。

 親鸞の他力や道元の自力はとても強い力です。ですが弱い他力と弱い自力を一つにすればそこそこ強い力になると思います。これを僕は「合力」とよんでいます。受け入れることは受け入れ、できることを行うということです。

新約聖書』のコリント人への第一の手紙の愛の所に南無阿弥陀仏を入れてみましょう。

 南無阿弥陀仏は寛容であり、南無阿弥陀仏は情深い。また、ねたむことをしない。南無阿弥陀仏は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
南無阿弥陀仏はいつまでも絶えることがない。

 意味は通ります。つまり「南無阿弥陀仏」=「愛」=「悟りを開いていること」ということです。合力=愛の力でもあります。

 「雨が降ったら傘を差す」の例えは分かりやすい状況ですが、人間関係が絡んでくるとややこしくなります。良かれと思って言ったことが相手を傷つけることもあります。受け入れるのか、入れないのか。できることがあるのか、ないのか。この見極めはある程度経験や知識が必要だと思います。失敗から学ぶことも多いです。難解ではありますが、『アンネの日記』にはこう書かれています。「なあに、愛は手段を見いだすさ」と。愛の力を利用するとけっこうなんとかなります。



⑤ まとめ
 僕の中で「真南無阿弥陀仏」の意味合いがだんだん変わってきていて、表記するとき「シンナムアミダブツ」に変えています。

と申しますのも、シン・ゴジラ「シン」を参考にしたからです。

「見た人の間で、必ず出る話題が、「タイトルの“シン”には、どんな意味があるの?」ということ。カタカナにした理由を、同作のプロデューサーで東宝映像本部映画企画部部長の山内章弘さんは、以下のように説明されています。

「これは、庵野総監督のアイディアです。“新、真、神…”見る人にさまざまなことを感じてもらいたいということで、正解があるわけではありません」

http://news.livedoor.com/article/detail/11967162/

というわけで「シンナムアミダブツ」の「シン」は「新、真、深、親、神・・・」で行こうと思っています。シンナムアミダブツには上記で説明させていただいた①〜④の意味が含まれています。また意味が増えるかもしれません。

 人生には妬み、怒り、憎しみ、恨み、不安、苦悩、老い、病気、死などがあります。家族がいれば家族にも起こり、つらい思いをします。真に生きていくということは苦難の連続です。

 以前僕が20歳ぐらの時に、誰の言葉かはわからないのですが「苦労を楽しめ」という言葉を聞き、楽しめるくらいなら苦労とは言わんじゃろ、矛盾した言葉じゃのお〜と思いましたが、なぜか心に響き、折に触れ思い出されました。それから30年過ぎた今では、少し実感できるようになりました。たしかに苦労はあります。しかしふり返ってみると、その苦労が大きければ大きいほど自分を成長させてくれました。また、その苦労も長続きしませんでした。諸行無常です。すべては過ぎ去ります。問題が解決できるときは解決するよう努力し、どうしようもないことはは受け入れることが少しづつできるようになりました。少しは達観できるようになりました。必要以上の後悔や不安も減りました。心が安らいでいる時間が増えました。

 僕は30年前に比べれば魂を感じる時間は増えました。ですがここ二年ほどは自分の魂(魂=愛)についてあまり注意を払わず生活してきました。魂についてあまり注意を払わず生活しても、パソコンをしたり、テレビを見たり、ゲームをしたり、仕事をしたりしていると時間があっと言う間に過ぎます。それでも大きな問題はないのですが、2019年は自分の魂にもっと注意を払い、喜び安いで本当の自分自身でいられる時間を増やしたいと思っています。

 最後までお読みいただきありがとうございました。

 シンナムアミダブツ

 シンナムアミダブツ

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