ギャップ萌え

 本日行われた「第4回スプラトゥーン甲子園」全国決勝大会で「GGBOYZ」が優勝されました。いや〜強い。

 GGBOYZのたいじ選手の過去のスプラトゥーンの配信動画を見ていると、一人で3人抜きのスーパープレイをした直後になんでもない所で水没されることがありました。ギャップ萌えの魅力。たいじ選手はeスポーツ界の長嶋茂雄です。今後もスプラトゥーンを盛り上げてくれることでしょう!

はいっ、おっぱっぴー

 昨年丸佳浩選手がフリーエージェントで巨人に移籍することが決まりました。その人的補償として、長野久義選手が広島に来てくれることになりました。制度とはいえ長野選手はご自身が愛する巨人を離れることになるのは、つらいことでしょう。

 広島東洋カープの開幕戦の相手は巨人だそうです。丸選手はどういった気持で長野選手のプレーを見つめるのでしょうか。「長野さんすみません・・・」と思った時点で勝負師としては負けです。かといって「そんなの関係ねぇ!そんなの関係ねぇ!」と思えるほど心が鬼にも見えません・・・。ん〜〜〜フリーエージェント制度は酷な制度です。

 いずれにしましても、カープファンは丸選手に「ウンコふんづけろ、ウンコふんづけろ、ウンコふんづけろ」といった呪いをかけることなく、長野選手に、新井さんや黒田さんに送った声援以上の温かい声援を送ってほしいですね。

NHKの判断基準はどうなっとんじゃ!

 昨年日経エンタテインメントの「好きな芸人ランキング」で1位になったサンドウィッチマン。ですが若いころは、ガラが悪いという理由でNHKに出演できなかったそうです。千鳥もガラが悪いと思いますが、NHKに昨年出演していました。まあ、まあそれは良しとしても、デーモン小暮は悪魔なのにNHKにバンバン出演しています。NHKの判断基準はどうなっとんじゃ!

シンナムアミダブツ(真南無阿弥陀仏)とは【下】(過去の記事について⑦)

③ ありのままの自分を認める

 親鸞の「南無阿弥陀仏」の中には「ありのままの自分を認める」という考えが含まれていると思います。ありのままの自分を仏が認めてくれるのです。

 僕の場合で申しますと、ありのままの自分を認めることができるようになったのは、数年前からです。認めることができるようになった理由は、色々ありますが、以下の四つが大きいと思います。

Ⅰ、他者の批判をしない
Ⅱ、批判的な見方をする
Ⅲ、失敗した時、次回からどうするか具体的対策を考え実行する
Ⅳ、感謝する

Ⅰ、例えば他者に対してただ単に「あの人は短気だ」というのは事実ですが、「あの人は短気だから駄目だ」と非難をともなう判断をすることがここでいう批判です。その物差しを作ってしまうと、その物差しが自分にも当てはまる場合が出てきます。物差しが多くなればなるほど自己批判も強くなってきます。物差しが減れば自己批判も減ります。つまり他者の批判を止めることにより自己批判も止めれます。他者に寛大になる自分にも寛大になれます。他者に優しくすることが、自分に優しくすることに繋がります。他者の物差しで自分を測らなくてすむようになりました。

Ⅱ、については「批判的な見方」と「批判」はちがいます。「批判」には、偏り、侮り、高慢などをともない、視野を狭めます。「批判的な見方」は公平、理解、共感などを伴い視野を広げます。先ほどの「あの人は短気だ」の例でみるとそれが良い場合もあれば、悪いばあいもあります。接客業でお客さんに対して気が短く不機嫌な対応をしてはよろしくありません。僕がであった短気な人は仕事に集中し多くの仕事をこなす人が多かったです。その人の意図、あり方により一つの特徴が有利、不利、よろしいこと、よろしくないことが違ってきます。「批判的な見方」は真実を深めてくれます。

Ⅲ、については仕事とかで失敗した時、自分を責めたり他者を責めたりすることが多く、落ち込む時間が長かったのですが、具体的対策を立て、次回から同じ失敗を繰り返さないようにするようにしました。また同じ失敗をしたら、違う具体的対策を立てます。その繰り返しです。失敗の回数が減り、自分を責めすぎないようになりました。

Ⅳ、については今の自分が存在できるのは、草木、人、土、水、空気、太陽などあらゆる存在があってのことです。僕を生かしてくれているすべてを大いなる存在と呼ぶとして、大いなる存在の愛には感謝しかありません。大いなる存在の慈悲は僕に安らぎを与えてくれます。感謝の気持ちを持ち続けると、ありのままの自分でいいんだよ思えるようになります。ですが日常のやらなければならないことに追われていると、それを忘れます。真南無阿弥陀仏は感謝を忘れないための言葉でもありました。



④ 合力(ごうりき)とは


 「雨が降ったら傘を差す」を使って合力について説明させていただきます。

 雨の中を歩くと濡れますが、雨が降ることを止めることはできないので、雨が降るという状況は受け入れます。雨が降るから地上の生命たちは生きられます。雨のおかげです。これが南無阿弥陀仏です(弱い他力)。

 傘をさすとはできます。できることは行います。ブッダの様に悟りっぱなしというのは、難しいかもしれませんが、誰でも悟っている時間を増やすことはできます(弱い自力)。

 親鸞の他力や道元の自力はとても強い力です。ですが弱い他力と弱い自力を一つにすればそこそこ強い力になると思います。これを僕は「合力」とよんでいます。受け入れることは受け入れ、できることを行うということです。

新約聖書』のコリント人への第一の手紙の愛の所に南無阿弥陀仏を入れてみましょう。

 南無阿弥陀仏は寛容であり、南無阿弥陀仏は情深い。また、ねたむことをしない。南無阿弥陀仏は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
南無阿弥陀仏はいつまでも絶えることがない。

 意味は通ります。つまり「南無阿弥陀仏」=「愛」=「悟りを開いていること」ということです。合力=愛の力でもあります。

 「雨が降ったら傘を差す」の例えは分かりやすい状況ですが、人間関係が絡んでくるとややこしくなります。良かれと思って言ったことが相手を傷つけることもあります。受け入れるのか、入れないのか。できることがあるのか、ないのか。この見極めはある程度経験や知識が必要だと思います。失敗から学ぶことも多いです。難解ではありますが、『アンネの日記』にはこう書かれています。「なあに、愛は手段を見いだすさ」と。愛の力を利用するとけっこうなんとかなります。



⑤ まとめ
 僕の中で「真南無阿弥陀仏」の意味合いがだんだん変わってきていて、表記するとき「シンナムアミダブツ」に変えています。

と申しますのも、シン・ゴジラ「シン」を参考にしたからです。

「見た人の間で、必ず出る話題が、「タイトルの“シン”には、どんな意味があるの?」ということ。カタカナにした理由を、同作のプロデューサーで東宝映像本部映画企画部部長の山内章弘さんは、以下のように説明されています。

「これは、庵野総監督のアイディアです。“新、真、神…”見る人にさまざまなことを感じてもらいたいということで、正解があるわけではありません」

http://news.livedoor.com/article/detail/11967162/

というわけで「シンナムアミダブツ」の「シン」は「新、真、深、親、神・・・」で行こうと思っています。シンナムアミダブツには上記で説明させていただいた①〜④の意味が含まれています。また意味が増えるかもしれません。

 人生には妬み、怒り、憎しみ、恨み、不安、苦悩、老い、病気、死などがあります。家族がいれば家族にも起こり、つらい思いをします。真に生きていくということは苦難の連続です。

 以前僕が20歳ぐらの時に、誰の言葉かはわからないのですが「苦労を楽しめ」という言葉を聞き、楽しめるくらいなら苦労とは言わんじゃろ、矛盾した言葉じゃのお〜と思いましたが、なぜか心に響き、折に触れ思い出されました。それから30年過ぎた今では、少し実感できるようになりました。たしかに苦労はあります。しかしふり返ってみると、その苦労が大きければ大きいほど自分を成長させてくれました。また、その苦労も長続きしませんでした。諸行無常です。すべては過ぎ去ります。問題が解決できるときは解決するよう努力し、どうしようもないことはは受け入れることが少しづつできるようになりました。少しは達観できるようになりました。必要以上の後悔や不安も減りました。心が安らいでいる時間が増えました。

 僕は30年前に比べれば魂を感じる時間は増えました。ですがここ二年ほどは自分の魂(魂=愛)についてあまり注意を払わず生活してきました。魂についてあまり注意を払わず生活しても、パソコンをしたり、テレビを見たり、ゲームをしたり、仕事をしたりしていると時間があっと言う間に過ぎます。それでも大きな問題はないのですが、2019年は自分の魂にもっと注意を払い、喜び安いで本当の自分自身でいられる時間を増やしたいと思っています。

 最後までお読みいただきありがとうございました。

 シンナムアミダブツ

 シンナムアミダブツ

 シンナムアミダブツ 

シンナムアミダブツ(真南無阿弥陀仏)とは【上】 (過去の記事について⑥)

 シンナムアミダブツについて以下の六つの項目に分けて説明させていただきます。

① 多くの人々の思いがこめられた言葉であるという歴史的事実を重視する
② 悟りを開いている時間を増やす
③ ありのままの自分を認める
④ 合力(ごうりき)とは
⑤ まとめ

① 多くの人々の思いがこめられた言葉であるという歴史的事実を重視する

南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%84%A1%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F

親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。

如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E

 科学的思考の教育を受けてきた現代人からすれば、「阿弥陀仏って想像の産物でしょ」と言われるかもしれません。ですが「南無阿弥陀仏」は千年以上昔から多くの人が数えきれないくらい唱え続けてきた言葉です。その言葉には多くの人々が自他の往生、救済、幸福の思いがこめられています。その思いは大きなものです。大きな力を感じます。僕の考えではは「阿弥陀仏とはなにか?」という問いよりも歴史的に多くの人々を救ってきたといいう事実こそが重要であり、力のある言葉であると感じています。

② 悟りを開いている時間を増やす

2012年12月13日にこのブログで「愛=悟りを開いた人=幼子」という記事を書きました。少し手直しして引用します

新約聖書』のコリント人への第一の手紙にこうあります。

 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。

「愛」を定義するものとして、分かりやすい説明です。この文章の愛のところと「悟りを開いている人」を入れ替えてみます。

「悟りを開いている人は寛容であり、悟りを開いている人は情深い。また、ねたむことをしない。悟りを開いている人は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
悟りを開いている人はいつまでも絶えることがない。」

 僕は誰もが悟っていると思っています。浅原彰晃が地下鉄サリン事件を起こす前、僕は書店で浅原彰晃の著書をパラパラッと立ち読みしたことがあります。具体的内容は忘れましたが、僕が少し読んだ範囲は善いことが書かれていた印象が残っています。浅原彰晃も悟りを開いていたと思います。ではブッダ(釈迦)と浅原彰晃の違いはなんでしょうか?「悟りを開いていた時間」だと思います。

 誰しも寛容な時があります。誰しも情け深い時があります。また、ねたむことをしない時があります。誰しも高ぶらない時があり、誇らない時があり、不作法をしない時があり、自分の利益を求めない時があり、いらだたない時があり、恨みをいだかない時があります。不義を喜ばないで真理を喜ぶ時があります。そして、すべてをしのぶ時があり、すべてを信じる時があり、すべてを望む時があり、すべてを耐える時があります。誰にとっても時はいつまでも絶えることがありません。


 「 悟りを開いている人」=「愛」ですから「悟りを開いている時間を増やす」=「愛である時間を増やす」ということです。

 浅原彰晃が悟りを開いていた時間(愛である時間)は短かったのです。ブッダが悟りを開いている時間(愛である時間)は長かったのです。おそらくブッダは一瞬一瞬、一日中、一年中悟りを開き続けていたんだと思います。その中間に僕も含め大勢の人々が存在しています。

 愛であり(悟りを開いていて)、愛という存在である自分を自覚することにより、愛する時間を増やせます。歴史上、遠い昔から現在に至るまで愛であり続けた方々の生き様や教えが今でも多くの人々を癒し、助け、慰め、いたわり、多くの人々に勇気と力と人生の指針を与えてくれています。

 木を切っていたり、お客さんの前でボールをけっていたり、パンを焼いていたり、お金を貸していたり、元副大統領だったり、コンピューターゲームの実況をしていたり、街角でティッシュを配っていても愛でい続けることは可能です。それにより自分自身を含め多くの方々を癒し、助け、慰め、いたわり、自分自身を含め多くの方々に勇気と力と人生の指針を持ってもらうことができます。

 愛であるということの中にはなりたい自分が含まれています。愛の逆のものになりたいと思う人はいないと思います。

「悟りを開いている時間」ということに関して僕自身はどうなのかといいますと、20年前と比べれば前身はしていますが、まだまだですね。 仕事をしていて色々なことが起こり忙しかったり、イライラしたり、家庭でゴタゴタがあったりすると悟りを開くとか安らいでいるとかそうゆうことをすっかり忘れてしまします。イスラム教では、一日に5回の礼拝が義務づけられているそうですが、納得です。ですが、日本文化の中でイスラム教の礼拝のようなことを僕が行うことは、かなり勇気がいります。ですので僕が最近行っているのが、仕事中、バイクで移動することが多いので、信号待ちの時に瞑想を行っています。目を開けて、両腕で一定の動きを繰り返す瞑想です。信号待ちのたびに悟りを開くことを思い出すといった感じです。短い時間ですが少し効果があります。

※シンナムアミダブツ(真南無阿弥陀仏)とは【下】につづきます。

本当は上沼さんに続投してほしいのですが

 上沼さんがM−1グランプリの審査員を今年で辞めるそうですね。審査される方々からみると、上沼さんの審査にはいろいろなご意見があるかもしれませんが、見させてもらう方は面白かったです。昨年のM−1グランプリマヂカルラブリーは上沼さんにぶった切られましたが、それが話題になり、救われました。上沼さんは番組を盛り上げてくれてきたので残念です。

 審査には女性の視点も大事だと思うので、上沼さんの代わりに、来年は内海桂子師匠が良いと思います。もし来年まで・・・・・・・。