シンナムアミダブツ(真南無阿弥陀仏)とは【上】 (過去の記事について⑥)

 シンナムアミダブツについて以下の六つの項目に分けて説明させていただきます。

① 多くの人々の思いがこめられた言葉であるという歴史的事実を重視する
② 悟りを開いている時間を増やす
③ ありのままの自分を認める
④ 合力(ごうりき)とは
⑤ まとめ

① 多くの人々の思いがこめられた言葉であるという歴史的事実を重視する

南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%84%A1%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F

親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。

如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E

 科学的思考の教育を受けてきた現代人からすれば、「阿弥陀仏って想像の産物でしょ」と言われるかもしれません。ですが「南無阿弥陀仏」は千年以上昔から多くの人が数えきれないくらい唱え続けてきた言葉です。その言葉には多くの人々が自他の往生、救済、幸福の思いがこめられています。その思いは大きなものです。大きな力を感じます。僕の考えではは「阿弥陀仏とはなにか?」という問いよりも歴史的に多くの人々を救ってきたといいう事実こそが重要であり、力のある言葉であると感じています。

② 悟りを開いている時間を増やす

2012年12月13日にこのブログで「愛=悟りを開いた人=幼子」という記事を書きました。少し手直しして引用します

新約聖書』のコリント人への第一の手紙にこうあります。

 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。

「愛」を定義するものとして、分かりやすい説明です。この文章の愛のところと「悟りを開いている人」を入れ替えてみます。

「悟りを開いている人は寛容であり、悟りを開いている人は情深い。また、ねたむことをしない。悟りを開いている人は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
悟りを開いている人はいつまでも絶えることがない。」

 僕は誰もが悟っていると思っています。浅原彰晃が地下鉄サリン事件を起こす前、僕は書店で浅原彰晃の著書をパラパラッと立ち読みしたことがあります。具体的内容は忘れましたが、僕が少し読んだ範囲は善いことが書かれていた印象が残っています。浅原彰晃も悟りを開いていたと思います。ではブッダ(釈迦)と浅原彰晃の違いはなんでしょうか?「悟りを開いていた時間」だと思います。

 誰しも寛容な時があります。誰しも情け深い時があります。また、ねたむことをしない時があります。誰しも高ぶらない時があり、誇らない時があり、不作法をしない時があり、自分の利益を求めない時があり、いらだたない時があり、恨みをいだかない時があります。不義を喜ばないで真理を喜ぶ時があります。そして、すべてをしのぶ時があり、すべてを信じる時があり、すべてを望む時があり、すべてを耐える時があります。誰にとっても時はいつまでも絶えることがありません。


 「 悟りを開いている人」=「愛」ですから「悟りを開いている時間を増やす」=「愛である時間を増やす」ということです。

 浅原彰晃が悟りを開いていた時間(愛である時間)は短かったのです。ブッダが悟りを開いている時間(愛である時間)は長かったのです。おそらくブッダは一瞬一瞬、一日中、一年中悟りを開き続けていたんだと思います。その中間に僕も含め大勢の人々が存在しています。

 愛であり(悟りを開いていて)、愛という存在である自分を自覚することにより、愛する時間を増やせます。歴史上、遠い昔から現在に至るまで愛であり続けた方々の生き様や教えが今でも多くの人々を癒し、助け、慰め、いたわり、多くの人々に勇気と力と人生の指針を与えてくれています。

 木を切っていたり、お客さんの前でボールをけっていたり、パンを焼いていたり、お金を貸していたり、元副大統領だったり、コンピューターゲームの実況をしていたり、街角でティッシュを配っていても愛でい続けることは可能です。それにより自分自身を含め多くの方々を癒し、助け、慰め、いたわり、自分自身を含め多くの方々に勇気と力と人生の指針を持ってもらうことができます。

 愛であるということの中にはなりたい自分が含まれています。愛の逆のものになりたいと思う人はいないと思います。

「悟りを開いている時間」ということに関して僕自身はどうなのかといいますと、20年前と比べれば前身はしていますが、まだまだですね。 仕事をしていて色々なことが起こり忙しかったり、イライラしたり、家庭でゴタゴタがあったりすると悟りを開くとか安らいでいるとかそうゆうことをすっかり忘れてしまします。イスラム教では、一日に5回の礼拝が義務づけられているそうですが、納得です。ですが、日本文化の中でイスラム教の礼拝のようなことを僕が行うことは、かなり勇気がいります。ですので僕が最近行っているのが、仕事中、バイクで移動することが多いので、信号待ちの時に瞑想を行っています。目を開けて、両腕で一定の動きを繰り返す瞑想です。信号待ちのたびに悟りを開くことを思い出すといった感じです。短い時間ですが少し効果があります。

※シンナムアミダブツ(真南無阿弥陀仏)とは【下】につづきます。