お詫びと修正

 お詫びがあります。このブログの2012-02-16の「ジャック」の記事に「広島市安佐動物公園にオランウータンはジャック一頭しかいなくて」と書いていましたが、2頭いたそうです。妻に「ジャック」の記事を見せたところ「あんた、メスもおったんよ、でもいつも別々にいたからそう思ったのかもね。メスとの関係がうまくいかなかったからジャックは北海道にいったのかもね」といわれました。オランウータン好きで記憶力も僕よりはるかにいい妻が言うのですから間違いないと思います。僕の記憶の中からメスの存在がまったくいなくなっていました。われながら自分の記憶力は当てにならないと思います。申し訳ありませんでした。このブログに、故意にウソは書きませんが、勘違いや記憶の欠如がありますので「ブログ☆直幸」に書かれていることは半信半疑でお読みください。

 それと、2012-02-23「悲しみの果てにあるのは何か」も読んでもらったところ、「これじゃ、読んだ人の中には『自分は前向きになれないからだめな人間』と思う人がおるよ」ということで、妻が加筆修正してくれました。それが以下の文章です。

 家族で見ていた『スイートプリキュア』が先月末で終わりました。以下は内容の要約です。

 ノイズという名前の存在は、誰もいない、何もない、音のない世界を理想世界として創造し、いずれ自分も消えようとしていた。ノイズを生み出したのは「世界の悲しみ」であり、悲しみの結晶、悲しみそのものがノイズであった。ノイズの理想世界創造を阻もうとするのが、4人の戦士プリキュアであった。

 以下の3人の中学生と1人の小学生が変身した姿こそ戦士プリキュアである。
 北条 響(中学生)/キュアメロディ
 南野 奏(中学生)キュアリズム
 黒川 エレン(中学生)/キュアビート
 調辺 アコ(小学生)/キュアミューズ

 ノイズは、最初は小鳥の姿だったが、だんだんと姿を変えながら、プリキュアと戦った。最終決戦では大人の人間とカラスが混ざったような姿をしていた。最終決戦(戦いというよりもプリキュアたちによる、ノイズへの慰めと癒し)により、ノイズの姿は無数の光の粒になり天に昇りながら消えていった。

 やがて世界に平穏が訪れ、プリキュアやノイズのことをよく知っている、アコの祖父である音吉の元へ響、奏、エレン、アコ達は訪れる。そこへ、小鳥の姿に戻ったノイズ(響たちはピーちゃんと呼ぶ)が響達の前に現れ以下のような会話が交わされる。

響:おかえりピーちゃん。(手のひらにノイズをのせる)
音吉:みんなどうしたというのじゃ!そいつはノイズじゃぞ!(いぶかる)
響:音吉さん、いくら幸せの世界になっても、悲しみや苦しみがすべて消えるわけじゃないわ。
奏:私達はピーちゃんを受け入れた上で前に進みたいの。
アコ:悲しみを見ないフリをするのが幸せとはいえないもの。
ミューズ:よく見ればかわいいよ。
音吉:なんと!
響:ピーちゃん、これからはずっと一緒だよ。
ノイズ/ピーちゃん:ピー。(涙ぐむ)

 これを見ながら思わず「中学生がこんなこと言えるかね」と僕が呟くと、横で見ていた妻が「大学生でも無理」とキッパリといいました。


 長渕剛は『ひとつ』でこう歌っています。

 悲しみは どこから やってきて
 悲しみは どこへ 行くんだろう
 いくら考えても わからないから
 僕は悲しみを 抱きしめようと 決めた

 『スイートプリキュア』を見終わってしばらくは、長渕さんが五十代で達したような境地に中学生がたどり着くとは思えませんでした。坂本龍馬は31歳、金子 みすゞは26歳、吉田松陰は29歳でお亡くなりになっています。ということは、本人の資質、思いの強さ、時代、環境、経験などによってその人の成長のスピードも違ってくるのでしょう。そう考えると、中学生があそこまで達観できるのは、無理とは言えないかもしれません。ノイズとの戦いが過酷だったのでしょう。

 長渕さんやプリキュア達は僕に色々なことを教えてくれました。悲しみに果てはありません。ですので、「悲しみの果てにあるものは何か?」という設問は、設問自体が間違っています。悲しみに果ては無いという認識と、その認識を持ちながら生きて行く覚悟が、幸せへの道だと思います。こう書くと、道のりがとても険しいように聞こえますが、助けてくれる「おおいなる存在」はいます。決して孤独な旅ではありません。プリキュア達や長渕さんの言葉が僕の心に響くのは「たまたま」でしょうか?プリキュア達や長渕さんの言葉を紹介し、これを読者の皆さんがお読みになるのは「たまたま」でしょうか?僕にはそうは思えません。「大いなる存在」は色々な方法で我々を助けてくれています。

それは、詩人達やアニメのキャラクター達の慰めの言葉。

それは、悲しみに沈む者に、寄り添う者の手のぬくもり。

それは、砂浜に打っては返し、打っては返す、波の調べ。

それは、幕末を駆け抜けた者たちの生きざま。

それは、自分自身の心の奥底からわき上がる真実の声。

 それにしても「つま弾くは魂の調べ、キュアビート!」という決めゼリフを持っていた、キュアビートはかっこよかったですね。このセリフが現実世界で似合うのは布袋さんでしょう。「つま弾くは魂の調べ、布袋寅泰!ジャーン♪」く〜。想像するとしびれますね。

 魂の調べともいえる自分自身の魂の声は、真実の声であり真実の感情、つまり愛です。悲しみ、不安、怒りといった否定的な感情は自己や他者を守り、愛し、そのつらい感情が大きければ大きいほど、やがては小さな喜びや、あらゆるものへの感謝の気持ちを強く感じることができるようになります。否定的な感情を忌み嫌う必要はありません。人はそんなに強くはないのです。悲しみや怒りをそう簡単には乗り越えられません。悲しくつらい時、無理して笑えない時もあります。怒りが抑えられない時も誰でもあります。そんな時は思い切り泣き、思い切り怒りましょう。いつか涙が枯れ、怒りも静まるのをじっと待つのも大切だと思います。否定的な感情を無理に抑えず、表にだした後、抱きしめることが、自分自身の癒しを早めます。魂の声は絶望の淵に立たされた者を、希望と真実の丘へと導いてくれるのです。