僕が死刑制度を反対する理由

 僕が死刑制度を反対する理由は以下のとおりです。

 大勢の人間を殺した犯人に対して死刑判決がでたとします。これは言い換えれば「暴力をふるった人間に対して、暴力で制裁する」ということです。これをさらに言い換えれば、「間違った人を殺していい場合がある」というメッセージを国家が社会に送ることになります。つまり、死刑制度は「人殺しをやめさすために人殺しをする」ということにほかなりません。死刑制度は悪い見本を世の中に示すことになります。

 確かに正当防衛で殺人をしなくてはいけない場合もあると思います。ですが、死刑制度はそうではありません。「正当防衛でなくても間違った人を殺していい場合がある」というメッセージを国家が社会に送ることになります。ストーカー殺人を犯す犯人の中には、「自分にひどいことをした相手を制裁するために殺人をした」という理屈もあるかもしれません。それは死刑制度の理屈と、理屈としては同じです。もちろん、狭い認識の中での間違った考え方です。

 死刑制度を言い換えると「正義を行うためには殺人をしてもいい」ということになります。これも絶対的な正義があるのなら、よいかもしれませんが、絶対的正義はありません。

 やなせたかしは二十一歳の時に戦争にいきました。『わたしが正義について語るなら』(やなせたかし著、ぽぷら社)にはこう書かれています。

「ぼくも兵隊になった時は、日本は中国を助けなくてはいけない、正義のために戦うのだと思って戦争に行ったのです。でも、聖戦だと思った行った戦争だって、立場をかえてみればどうでしょう。中国の立場から見れば侵略してくる日本は悪魔にしか見えません。そうして日本が戦争に負け、すべてが終わると日本の社会はガラッと変化しました。それまでの軍国主義から民主主義へ。それまでは天皇が神様だと言っていたのに、急にみんな平等だ、民主主義だといわれるようになりました」

 ストーカーにはストーカーの正義が、暴力団員には暴力団員の正義が、国家には国家の正義があるのです。それらの正義は時代や状況とともに変わります。

 つまり、この世から「人が人を殺すこと」を無くすために死刑制度を続けることは有効ではありません。泥棒が「泥棒をするな」というようなものです。説得力がありません。

 そのほかに死刑制度を無くす場合問題になるのは、被害者や被害者の家族の心情はどうなるのかということです。例えば自分の家族が無残な殺され方をしたとき、犯人を憎むのは当然だと思います。

 あれは、十年以上前のことです、僕と僕の妻は結婚していて二人とも年齢は二十代でした。妻が仕事帰りに夜道を歩いていると、若い男が妻の胸をさわってきたそうです。妻は恐怖で声も出すことができず、立ち尽くしていて、しばらく胸をさわった後若い男は去ったそうです。帰宅後僕がその話を聞いている時、妻は涙を流しながら泣いていました。それを聞いた僕は強い怒りこみあげてきて、その若い男に同じ恐怖を味わわせてやりたいと思いました。もし、それから僕が一年以内ににその若い男に出会っていたら、その男に対して、理性を失ったような行動をとっていたかもしれません。

 しかし、今では、僕はその犯人に対して憎しみはありません。むしろ憐れんでいます。そのようなことをする犯人がその後すんなり幸せになれたでしょうか?そうは思いません。自分のしたことは自分に返ってきます。僕の45年の人生を振り返ってもそう思いますし、他者を観察していてもそう思います。その犯人には相当の苦難が待ち構えているて、幸せになるためにはかなりの努力が必要になることでしょう。別に被害者が復讐しなくても、自業自得ということはあります。自分が引き寄せた苦難を「バチが当たった」と取るか「自分を成長させる機会だ」と受け取るかは人それぞれだと思います。僕は痴漢をした犯人には、善人になって、苦難を「自分を成長させる機会だ」と考え、社会のためになるような生き方をしてほしいと願っています。

 東日本大震災で他者を助けるために、命を落とした方々の話を僕はいくつも聞きました。それは人間の本質は善であり愛であることを物語っているのではないでしょうか。もし、人間の本質が悪であり恐れであるならば、一瞬の判断で生死が決まる津波という状況から逃げるという判断をくだし、だれもが逃げ出したことでしょう。平井堅のバラードが多くの人々の心に響くのも人間の本質が愛であるからだと思います。

 親鸞中山みきガンジーといった方々は人間の善と愛を体現された方々だと思います。彼らは本当の人間とは何かを教えてくれたのです。

 親鸞だったら自分の子供が殺されたらどうするでしょうか?中山みきだったらどうするでしょうか?ガンジーだったらどうするでしょうか?彼らはいずれは赦すと思います。僕はどんななに怒りに震えている犯罪被害者のご家族も、親鸞と同じ人間であると思ってみています。ご家族の中に親鸞をみます。中山みきをみます。ガンジーをみます。

 自分の家族が殺されて、犯人に対して殺してやりたいと思っている被害者の家族の姿は本当の姿ではないとぼくは思っています。

 また、死刑になるような犯罪をおかした犯人を殺すことで、死刑になるような犯罪の責任をすべて犯人に負わせることになるのではないのでしょうか?社会には責任はないのでしょうか?犯人が育ってきた生活環境はどうだったのでしょうか?政治家、精神科医、映画製作者、漫画家、教師、宗教者など、社会に大きな影響を与える方々に責任はないのでしょうか?。死刑になるような犯罪を無くすために、見つめなければならないことはたくさんあるはずです。生まれつきの極悪人はいません。自分を見失った極悪非道な犯罪者の中にも善の心はあるはずです。

 というわけで、僕は死刑制度に反対します。

 やなせたかしの残した『それいけ!アンパンマン』の物語は今後どうなるのでしょうか?これからもアンパンマンばいきんまんは戦い続けるのでしょうか?やがては問題を話し合いで解決し、彼らが仲良く暮らせる日が来ることを僕は願っています。