救世主達 (過去の記事について④)

 以下の記事は2013-11-24の僕のブログの記事を加筆修正したものです。

「救世主とはどんな存在なのか?」ということを考えてみました。
 
 もし仮にこの先、超能力とでもいえるようなとてつもない能力を持った一人の人間(以下Q)が現れて、地球上の飢えた人々に食料を与え、悲しんでいる人たちから悲しみを無くし、あらゆる争いを収め、あらゆる病人を癒し、あらゆる問題を解決したとします。そんな人が現れたら、多くの人々がQをあがめたてまつり、Qに頼り切ってしまうのではないのでしょうか?Qは多くの人たちの力を奪ってしまうと思います。Qが現れることで、生じるであろう多くの失業者(医療関係者、哲学者、弁護士、軍人、警察関係者、政治関係者等)も救うのでしょうか?Qの出現は多くの人たちのやる気と力を奪うと思います。Qは人類の歴史をも否定しかねません。はたしてそんなQは救世主といえるのでしょうか?

 僕にとって救世主はどんな存在なのかを考えてみると、まず生きていくためには食べ物が必要です。その食べ物を作ったり、獲ったりしてくる農家の方々や漁師さんは、僕にとっては救世主です。そのほかにも、電気があるおかげで便利な生活ができるのですから、電気関係のお仕事をされている方々も僕にとっては救世主です。

 そうやって考えていくと人間生きていくうえで、いろいろ人や生物や物の助けがあります。つまり、ぼくにとっての救世主は現在地球上に70億以上いる人間、そして草木や海、空気など、すべての存在が救世主であり神の子であり仏の子なのです。

 誰でも一瞬一瞬何かを選択しています。惰性や習慣になっていることもありますが、なにも選択しないというのも選択の一つです。人間生きていくうえで、いろいろ人や生物や物の助けがあります。死を選択するか生を選択するか。喜びを選択するか悲しみを選択するか。自分を救おうとするのか、しないのか。起点は自分自身の選択です。ありがたい教えも、聞く気が無い人には馬の耳に念仏です。ありがたい教えを聞いた後、その教えが役に立つかどうかを判断できるのは最終的には自分です。つまり救世主はすべての人間一人一人の心の中にいるのです。

 『それゆけ!アンパンマン』(日本テレビ)は、機械工学の天才であるばいきんまんが悪さをして、顔がアンパンの勇者アンパンマンばいきんまんをこらしめるという物語です(たまにそうでないときもあります)。アンパンマンはヒーローなのですが実に弱い。ばいきんまんとの戦いで、顔が汚れただけで、弱々しい声で「顔が汚れて力がでない」と言って、歩くのもままならなくなります。しかし、まわりの仲間の助けがあって、ジャムおじさんが「新しい顔」を焼き、新しい顔と汚れた顔を付け替えることで、元気になり、ばいきんまんをアンパンチでふっとばすことができるのです。仲間がいなければアンパンマンはまったくの役立たずです。

 ですが僕はそこにこそ『それゆけ!アンパンマン』という物語の重要なメッセージがあると思うのです。人間一人では生きては行けません。いろいろな人の助けがあってこそです。「協力」という言葉が持つ意味、協力するにはどうすればよいか、協力するとどうなるのか、本当の強さとはなんなのかをアンパンマンは教えてくれます。

 それにアンパンマンは弱いくせに、自分を犠牲にしてまで他者を助けようとします。その姿勢が、まわりの仲間たちの勇気ややる気を引き出すのです。それはちょうど、弱くて純真な子供が、「子育て」という経験を親にさせることで、親が人間的に成長するのと似ています。

 そうやって考えていくと、あらゆる存在が救世主ともいえますが、もう少し範囲をせばめると、周りの人を元気にしたり、やる気を起こさせたり、本来持っている力を使えるようにしたり、笑顔にしたりして、本当の自分はなんなのかを思い出させ創造させる存在が、救世主といえると思います。

 救世主達は木を切っていたり、お客さんの前でボールをけっていたり、パンを焼いていたり、お金を貸していたり、元副大統領だったり、コンピューターゲームの実況をしていたり、街角でティッシュを配っているかもしれません。

 複雑多様な難題が山積する現代に一人二人の救世主では間に合いません。一人でも多くの方々に救世主になっていただきたいですね。