公憤 〈下〉

僕の場合、人から「あなたが信じる宗教はなんですか?」と聞かれたら「天理教です」と答えることにしています。天理教は、仏教のような形而上学は無く、キリスト教のような博愛精神の実践と比較すると見劣りします。天理教も探せばいい所がありますが、ぼくが天理教の信者を名乗る一番の理由は敬愛する父が天理教を信仰していたからです。自分自身のアイデンティティーを定義する際、宗教が占める割合は人によっては大きいものです。ですから、ユダヤ人とムスリムイスラム教徒のこと)の対立はある程度は理解できているとおもいます。

 宗教的アイデンティティーは大切ですが、本当に大切なのは何かということを考えることも、他者に対する敬意と自分が自尊心を持って、共に生活するうえで役立ちます。

 ある所に二人の実業家がいました。一人は自分はユダヤ人と名乗る人で、その人は熱心に信仰し、自分に与えられた神の恵みを多くの人と分かち合うために、自分が経営する会社の社員の福利厚生をよく考え、私財も心をこめて慈善事業に寄付し、お客様のことを常に考え、よりよい商品を作り、自分も周りの人も幸せになることを人生の目的にしていました。もう一人は自分はムスリムであると名乗る人で、信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼をきちんと行っていたが、その人は常にどうやればお金を増やすかが人生の目的であり、法律さえ犯さなければ、倫理などは無視して貧しいものから搾取することもいといませんでした。宗教儀礼を行うのも社会的な信用を得るためでした。真のムスリムに近いのはどちらの人でしょうか?

 2012年3月22日の毎日新聞の国際面の「三日月とダビデの星 〈上〉」には、以下のように書かれています。
 「イスラエルベングリオン大のハガイ・ラム教授(中東学)は、国民の対イラン観を『作られたイラノフォビア(イラン恐怖症)だ』と断言する。『民族形成には自己を定義する他者が必要』。多様な解釈の可能な聖書物語も使い『他者』を作った。長年の敵アラブの大国エジブトと79年に平和条約を結んだ結果、イランが新しい『恐怖』とされた。政府、メディア、国民による共犯だという。」

 2012年3月23日の毎日新聞の国際面の「三日月とダビデの星 〈中〉」には以下のように書かれています。
 「『イルラエルを倒せ』。33回目の『イスラム革命記念日』の2月11日、テヘラン中心部で『官製デモ』で、数万人の市民が声を張り上げた。反発する『改革派』の政治家や市民を徹底弾圧する一方で、イラン政府は貧困層や地方住民を巧みに動員。経済の疲弊、生活の悪化は『敵国の陰謀』との論理を振りまく」

 その他にも2012年3月23日の毎日新聞の国際面には、考えさせられる記事がいくつかありましたので、紹介します。

 「仏乱射 容疑者が死亡」の見出しでフランス南部でユダヤ人学校襲撃事件の記事があります。痛ましい事件ですが、この事件の背後にも「力は正義だ」という思いがあります。大国が自国のエゴを押し通し、人々の「違い」が政治利用され、権力者の都合のいいように真実がねじ曲げられて伝えられるかぎり、昨年7月のノルウェーの銃乱射・爆破事件や今回のフランス南部で起こったような事が続くといわざるを得ません。「違い」に優劣はありません。人により好みはあるでしょうがバラより桜が美しいということはありません。

 同日の記事には「尖閣諸島『日本の実行支配打破』」とあり、「中国当局尖閣諸島の領有権を主張する活動を活発化させている。」と書かれています。今後、日米安保条約を破棄した場合、尖閣諸島の実行支配はすぐに中国に移るかもしれません。しかし、世界政府ができた暁には裁判に訴えればいいでしょう。うまくいけば、尖閣諸島竹島北方領土すべて日本に帰ってくるかもしれません。もっともその逆もありえます。しかし、それらの領土をすべて失ったとしても、得るもののほうが、ずっと多いのです。尖閣諸島のまわりの海洋資源は利益をもたらしますが、世界政府を創設せず、この先何百年、何千年も陣取りゲームに多くの人的エネルギーを使い続けるのは、エネルギーの無駄遣いです。もっと優先すべきことがたくさんあることは、今の日本の東北地方の例を出すまでもありません。それに、中国が13億人の人々が食べていくためには、それは、やっぱり大変でよ。それに、19世紀以降の中国に対する、日本をはじめとする列強による陵辱。いままで様々な文化を日本人に教えてくれた恩。それらを考えると僕は中国に同情的です。

 同日の記事にはそのほかにも、「原発テロ『備え』訴える」の見出しで、ソウルで行われた第2回核安全保障会議のことがかかれています。「原子力安全と核テロ防止の双方に対処可能な『効果的な備え』の必要性を訴えている。」と書かれています。確かにいままで、核テロは起きていません。テロリストにも良心はあります。しかし、良心を無くすほど精神を病んでいたらどうなるでしょうか?精神の病が深いテロリストの手に渡る前に核兵器を無くさなくてはいけません。現実は核拡散が続き核兵器がテロリストの手に渡る日が近づいています。

 同日の記事にはそのほかにも「北朝鮮ミサイル発射問題提起へ」という見出しがあります。北朝鮮がミサイルを発射して国威発揚しようとしています。ここにも「正義」よりも「力」への崇拝があります。
 
 同日の記事にはそのほかにも「マリで軍が反乱権力掌握を表明」のみだしです。ここにもやはり「力は正義だ」の思いがあります。

 同日の記事にはそほほかにも「温首相に薄氏反発」の見出し。「民主化要求運動を武力鎮圧した中国の天安門事件(1989年)について、温家宝首相が共産党指導部の非公式会議で再評価を提案したところ、薄熙来・前重慶市党委書記が強く反発した」とあり「温首相は、事件で学生らに同情的な姿勢を示して失脚した趙紫陽元総書記(05年死去)の元側近で、政治改革をこれまで再三訴えてきた。」とありあます。

 これらの記事を読んで分るとおり、今の世界には「世界の正義(法による統治と言い換えてもいいでしょう)」がありません、ほとんどの人が意識的、無意識に関わらず、力が正義であるという振る舞いをしています。現在の複雑な中東情勢という方程式にも「力が正義だ」という定数が存在します。これをこのまま続けていれば、人間が作った力(核、大量破壊兵器、環境破壊をもたらす技術等)をコントロールできず、力が暴走しやがて人類は破滅するでしょう。我々の子供達のためにも、それは防がなければなりません。力が正義なのではなく。正義を果たすために力を使うのです。まず、世界の正義がなければなりません。そのためには、世界政府(もっといい方法があれば教えてください)の創設が有効ですが、人類一人一人の意識改革も必要です。すこしづつですが、光が見えます。温首相の取り組みも小さな光のひとつです。

 現在のシリア情勢についてですが、シリアの反政府勢力の激しい怒りを感じます。確かに「怒り」は人間にとって必要です。誰かに傷つけられたとき「怒り」があるから、「やめてください」と言えます。しかし、激怒は視野を狭め、理性を失わせ、相手への攻撃へと走らせます。怒りと言っても、公憤や悲しみの混じったものなど、さまざまですが、アサド大統領をはじめとする政府のみなさんは、外国の監視団などを招いた公正な選挙や言論の自由などを約束し、反政府勢力の怒りを鎮め、反政府勢力との武力闘争をやめるのが良策かと思います。そういった約束をしても、まだ反政府勢力が武力闘争を続けるなら、正義は政府側にあると思います。内戦が長引けば、人心、経済は疲弊します。つまり、銃口の先にいるのは社会的弱者です。アサド大統領をはじめとするシリア政府のみなさんには、勇気ある決断をお願いしたいと思います。 

 『「怒り」の正体』(和田秀樹著 バジリコ株式会社)にはこうか書かれています。「正しい怒り方をすれば世の中も変えていけるはずです。つまり、論理的な、かつ結果を見通した公憤であれば、世の中にプラスの効果を生み出す力になります。何度も言うように怒りには建設的なパワーがあるのです。」

 怒りを表出することは大切ですが、暴力や我を忘れてはいけません。暴力によらない紛争解決の方法があるはずです。

 国際連盟の失敗の理由の一つは大国の不参加がありましたが、世界の人々の意識が低かったこともあげられます。現在は情報通信技術、手のひらに収まるコンピューターなど人々の意識を高める道具がたくさんあります。条件は整っています。国際連盟の失敗の反省から国際連合は創設されました。しかし、もはや国際連合は大国の利害関係により機能不全であることはどう見ても明らかです。人類存続のためには新たな制度づくりと世界の人々が新たな意識を持つことが求められています。

 2012年3月24日の毎日新聞の国際面の「三日月とダビデの星 〈下〉」にはこうあります。「元電気修理業のユダヤ人、ムーサ・ザカリアイさん(70)は『イスラム教の起源はユダヤ教で、信者同士はいとこのような存在。憎み合う理由はない』と語る。ユダヤ教をさかのぼれば、イラン起源のゾロアスター教に行き着く。
 ザカリアイさんは、子供5人のうち3人が米国、妹がイスラエル暮らし、両国とも訪ねたが、『路上で車が故障した時、誰もが世話を焼いてくれる優しいイラン人が一番好きだ』。自由がなく少数派を抑圧する『真っ黒なイラン』像を否定し『政治が対立をあおっている』と話す」

 「人類は一つの家族」これは、聞えのいいスローガンでも、きれいごとでもなく紛れもない真実なのです。ザカリアイさんの愛と誠がそれを裏付けています。裸の王様を見て「王様は裸だ」といったのは子供です。裸の王様を見て「王様はきれいな服を着てますね」というのはやめましょう。大人も子供頃の純真さを思い出し、真実を語り、真実を生きましょう。僕は人から「寝言は寝て言え」「頭がおかしいな」と言われようが、「人は誰しもが仏であり、神の子であり、人の子(神の子であることと同時に人の子であることは矛盾しません。このことについてはまたの機会に説明します)である」と信じています。

 かすかな光をたくさん集めれば、大きな明かりになります。その明かりを希望の木に照らせば、希望の花が咲き、やがてイスラエル、シリア、イランには美しい花が咲き乱れることでしょう。神の慈悲には限りがありません。

 南無常不軽菩薩。

 かみさまありがとうございます。