年齢

 僕は今年の2月21日に44歳になりました。僕が中学生の頃は、高校生がおじさんに見えていましたが、44歳の今では20代ぐらいの人でも幼く見えます。ボクシングの世界チャンピオンの井岡一翔君(23歳)がバラエティー番組に出演するのをお見かけしますが、僕の目からは、彼が中学生の美術部員に見えてしまいます。カツアゲされないように注意してほしいです。カツアゲする人がかわいそうですから。

 NHKの『心の時代』を見ていると、高齢の求道者達が出演されていることが多いです。テレビを見ていると、彼らの「人生経験を通して知ったこと」を語る言葉は、僕の心にずっしりと重く響きます。同じ言葉を10代、20代頃の僕が聞いていても心には響かなかったと思います。例えば「セックスの純粋な喜び」は経験しないと知ることはできません。100万語費やしても無理です。人生の目的のひとつは「経験を通して知る」ことです。

 僕がであった人生経験豊かな方の多くは、若者に比べ自己の感情を適切に扱われています。否定的な感情を「ため込む」ことと「抱きしめる」ことは違います。不安、怒り、悲しみといった否定的な感情をため込むと、胃に穴が開いたり、うつになったり、大爆発したりと体によくありません。人それぞれにあった表出方法があると思います。歌ったり、話を聞いてもらったり、ブログを書いたり、運動をしたりといろいろあります。僕がお世話になっていたある高齢者は、怒りを表現するときは、ユーモアをまぶして、相手が傷つかないように表現されていました。上手でした。
 
 悲しみがあるから、古い自分にお別れできます。
否定的な感情を「抱きしめる」ということは、あるがままに自分をみて、あるがままの自分を慈しむということです。弱く、情けなく、醜くい自分自身に、バカボンのパパのように「これでいいのだ」と言って、認めてあげることです。そうすることで、少しづつ一つの悲しみ消えていき、次の段階にすすめ、新しい自分に出会えます。次の悲しみに今までと違った態度で臨めます。

 一般的に若者は身体エネルギーが高く、物覚えが速く、応用力があり、進歩的です。高齢になるとそれらは衰えます。しかし、高齢者の人生経験を通して得た「知」は世界にたったひとつしかない本物です。この本物の「知」の前では、若者の言動は軽くみえます。しかし、この軽さは悪いものではありません。若者に「軽さ」があるからこそ、人生という名の大海原を、大きな夢という名の大陸を目指し、若さという名の船の帆をあげ、時代の風をうけ、新しい挑戦という名の航海へと旅立てるのです。これを読まれているあなたが若者でしたら、その船に刻まれている船名こそ、あなたの名前なのです。

 高齢の求道者たちの、真実の言葉が心に響くようになったということは、それなりに僕も人生経験を積んだということでしょう。ですが、100歳の高齢者から見れば、僕はまだまだ鼻たれ坊主の青二才に見えることでしょう。